本文へスキップ

キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

トップページ > 史跡案内 > 石川 > 庄兵衛谷の射的場

庄兵衛谷の射的場

                          石川県:浦上キリシタン牢獄跡、殉教地

大聖寺藩預けの浦上キリシタン


長崎から流配されてきた浦上キリシタンが入れられた牢の跡。

1870年1月6日(明治2年12月5日)、浦上村を出発した信徒たちは大阪を経て、琵琶湖畔に沿って陸行して大聖寺に着きました。その時の人数は83名で、後に33名が富山藩へと送られるのですが、それまで彼らは全員、庄兵衛谷の射的場にあった建物に収容され、牢屋生活をしました。



庄兵衛谷の射的場


庄兵衛谷の射的場は、流配されて来た者たちが最初に入れられた牢で、ここで3人が死亡しました。

浦川和三郎著「旅の話」には、「市の東手の庄兵衛谷の射的場の長屋に収容された。長屋は土間に藁をならべ、その上に薄縁を一枚敷いてあるのみで、床板すら張ってない。食物とても朝は粥を一杯、昼と晩には茶碗一杯ばかりの堅飯をあてがうに過ぎないのだ」とあります。

このような過酷な環境で、モトの子忠蔵2歳、イトの娘サノ3歳、マキの娘ツネ2歳が死亡しました。この山の際に鉄砲稽古場が設けられていて、そこにあった長屋に信徒たちを押し込めていました。

流配から解かれ長崎に帰って行くまでに、あと3人亡くなっているのですが、誰がいつどこで死亡したのか分かっていません。各寺に分囚した際も体力が著しく弱った者は庄兵衛谷に戻されたので、その3人もこちらで死亡した可能性があります。




庄兵衛谷の射的場跡

庄兵衛谷の射的場跡

庄兵衛谷の射的場跡

手前の寺


 
 現地への行き方
住所は加賀市大聖寺下屋敷町です。



この地図は大体の位置を示すものなので、訪問の際は現地の案内や地図で所在地を確認してください。

インフォメーション
《本サイト内の関連ページ》
《本サイト以外のサイト》


                                          NEXT >>