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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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湯坐屋跡

                              石川県浦上キリシタン牢獄跡

人員を調べるときには「一匹、二匹・・・」と


浦上キリシタンの金沢へ配流は二回に分けて行われ、戸主たち114名が出発した4日後、第二陣としてその家族410名が船に乗せられ玄界灘を越え、七尾で上陸、厳冬の中一週間歩いて金沢に到着しました。信徒達は人として扱われず、家畜のように「一匹、二匹…」と数えられていました。

湯坐屋は元湯治場で、二階建の建物には47部屋あったので、到着した410名もの大人数を一ヶ所で収容できましたが、すでに湯も枯れ、さびれていました。現在は雑草のはびこる石置き場となっています。



雑草に覆われた湯坐屋跡


1869(明治2)年12月8日、金沢への第二陣410名が長崎の港を出発しました。日本海側を進み、12月12日に能登半島の七尾に到着。

雪のため七尾に3日留まりましたが、いつになっても止まないので、雪の中を出発、一週間ほど歩いて12月22~23日に卯辰山に着き、湯坐屋に収容されました。

翌年になると42名がはしかにかかり、そのうち3名が命を落としました。

石置き場と雑草


1871(明治3)年12月8日付の「ジャパン・ウィークリー・メイル」という横浜の英字新聞に、キリシタンたちの様子を描写する投書が載りました。

「600人以上もが豚小屋の豚のごとく、獄屋の二階に詰め込まれている。囚人の中の多くの幼児も天然痘の伝染病でほとんど亡くなった。南京豆のおむすび一個だけのひどい食糧事情だ」と。

多少の誇張と混同が見られるものの、これは湯坐屋に囚われていたキリシタンのことを指しています。

目印となる興川貞次郎氏の碑


全国20藩に流された3000余名の浦上キリシタンのうち、500名を超える最も多くの人々がやってきたのが金沢の卯辰山だったからです。

投書をしたのは英国人オズボーンであったといわれています。この記事が在留外国人の間に大反響を巻き起こし、外国人による視察、それを受けた外務省の改善命令へとつながっていきました。


「興川貞次郎紀功之碑」

湯坐屋跡

湯坐屋跡

 
 現地への行き方
路線バスで「金沢ユースホステル前」下車、徒歩10分。金沢ユースホステルを過ぎた最初の道を左折、しばらく進むと前方に「興川貞次郎紀功之碑」が見えます。その左手にある石置き場が湯坐屋の跡です。レンタカーなど車の利用をおすすめします。



この地図は大体の位置を示すものなので、訪問の際は現地の案内や地図で所在地を確認してください。

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